2007年10月4日木曜日

ココ・シャネルの人生

☆☆ 創始者 ☆☆

ココ・シャネル Coco Chanel  本名 Gabrielle Bonheur Chanel
1883年8月19日 - 1971年1月10日
フランスの女性ファッションデザイナー


☆☆ 創業 ☆☆

1910年 パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店
1915年 ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。


☆☆ 生い立ち ☆☆

ココ・シャネルはフランス南西部オーベルニュ地方で生まれる。

12歳の誕生日を迎える前に母親が他界、父に捨てられ、孤児院や修道院で育つ。

「ココ」は愛称で、田舎町ムーランでお針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌っていた"Ko Ko Ri Ko"(コケコッコウ)と、"Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero"(トロカデロでココを見たのはだれ?)という歌の題名にちなんでつけられたもの。


☆☆ 起業 ☆☆

1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業。
 当時交際していた将校であるエチエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外の彼の牧場で、囲われるような生活を送っていたらしが、退屈しのぎで制作していた帽子のデザインが認められて、彼の援助で開店する。

1910年、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。
 エチエンヌを捨て、彼の友人の英国人青年実業家アーサー・カペルと駆け落ち同然でパリに出る。カンボン通りの店はアーサーの出資によるもの。当然のことながら、カペルは投資をしたことを悔いる必要はなかった。

1913年、ドーヴィルに二号店を開店。

1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。
 翌年のコレクションでジャージー素材をのドレスを発表し大成功を収める。
 仕事は順調だったが、カペルが貴族の令嬢と結婚してしまい、一旦二人の関係は終わる。しかし、それを悔いた彼はシャネルのところへ帰る途中、自動車事故で落命してしまい、さらにシャネルを絶望に近い状況にまで追い込んでしまう。
 親しい友人の助力で、ゆっくりと活力を取り戻さなければならない程のショックを受けたらしい。 きっと、とっても似たもの同士だったのだと思う。出生が不確かで、しかし優れた才能があり、やり手で上昇志向が強い。恋人としてでなく、同志的な意味でつながっていたのだろう。


☆☆ 興隆そして引退 ☆☆

1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。 シャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表。

1924年、以降6年間に及び交際することになるウェストミンスター公爵と出会う。彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。 さらにこの間に、後にシャネル・スーツとして発表されるスーツの原型がつくられ、ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、工場長を務める間、31-34年にツイード生地の開発に取り組んだ。 1934年、企業として順調に成長し続けるシャネル・ブランドは、アクセサリー部門のファクトリーを開設。翌年服地専門のファクトリーも開設した。

1939年、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、労働者のストライキであっさり一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。

以後15年間ファッション界では沈黙を守る。

第二次世界大戦中の1940年にフランスがナチス・ドイツ軍に占領された際に、ドイツ軍将校を恋人として安穏な生活を送った。

1944年自由フランス軍と連合軍によるパリ解放後に、対独協力者としてフランス中で非難を浴び、彼とともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った。


☆☆ 復活 ☆☆

1954年、沈黙を破り、ファッション界へカムバックを果たす。ヨーロッパではバッシングを受けたが、女性の社会進出がめざましいアメリカで熱狂的に受け入れられる。

1955年シャネル・スーツを発表。アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。

1971年、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で亡くなる。亡骸はスイスのローザンヌの墓地に埋葬されている。

メゾンの歴史

1910年 - パリのカルボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店。

1913年 - ドーヴィルに第1号のモードブティックを開店。

1915年 - ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。

1916年 - 第1回シャネル・オートクチュール・コレクションを発表。ジャージー素材のドレスを発表。

1921年 - 本店をカンボン通り31番地に移転。シャネル初の香水「No.5」を発表。
黒い服を「リトル・ブラック・ドレス」を発表したり、 男性用ツイード素材のスーツを発表して話題となる。

1939年 - 香水とアクセサリーのブティック以外の全店を閉鎖する。 1954年 - 閉鎖店舗が復活。カンボン通りの店を再開し、オートクチュール・コレクションも復活させる。

1970年 - 香水「No.19」を発表。

1971年 - コレクションの準備期間中、住居としていたホテル・リッツで、ココ・シャネル死去。没後もメゾンは継続し。

1974年 - アトリエのチーフだった、ジャン・キャゾボンとイヴォンヌ・デュデルがグリフを継いで製作にあたる。

1977年 - シャネル香水会社が、スティリストのフィリップ・ギブルジェを招き、プレタポルテ部門と専用ブティックをオープンした。

1983年 - ドイツ人デザイナー、カール・ラガーフェルドが芸術顧問、オートクチュール・コレクションの責任者として起用。ココのスタイルを守りながら、時代の空気を取り入れた新しいシャネルを提案し、再興を果たす。

シャネルのパリ本店


シャネルのパリ本店の場所です。ご存じの方も多いとは思いますが、あしからず。日本の銀座店より、なんとなく敷居が低いような??
外国だからだろうか?ちなみにすぐ裏がマドモアゼル・シャネルが済んでいたThe Ritzです。

住所:31 Rue Cambon, Paris, FR,

シャネルスーツ

シャネルは引退後15年目の1954年2月に、70歳でカムバックしました。そして55年にマドモアゼル・シャネルは、機能的なツイード・スーツを発表しました。これが今のシャネルスーツです。

当時、フランスではクリスチャン・ディオールの、復古的で、女性らしいくウエストをしぼった「ニュールック」が流行しており、彼女の「シャネルスーツ」は不評でした。勿論、戦中にナチスの将校と関わりを持ったという経歴も不評の原因の一つでしょう。さらに、戦後の揺り戻し的保守主義からフランスでは女性が働くことが一般的ではなく、女性解放全般が進んでいなかったという状況も禍いしたのでしょう。

しかし、シャネルスーツは女性の台頭の著しかったアメリカで熱狂的に歓迎されたのです。

55年、シャネルスーツは、上着とスカートのツー・ピース。スカートは膝丈で、デスクワークのどんな立ち居振る舞いにも適していました。肩からヒップまで直線的に下りるラインを際だたせ、丸い襟元のシンプルな上着の下に白のブラウスがさりげなく豪華さを演出していました。結果的にこのツイード・スーツ(通称「シャネル・スーツ」)は、アメリカで人気が爆発後、遅れること10年、女性の高学歴化が60年代に進んだフランスで人気とな り、70年代に入ってシャネル・スーツは世界的な大流行となったのです。

シャネル・スーツは、20年代のシャネルが編み出した基本的なラインを維持しながらも、ツイードがジャージーにとって代わり、機能性が向上して、一層、素敵になっていると思います。

ただ、シャネル・スーツはどんな女性にでも似合うという信仰がありますが(私もそう思っていた)、どうもそうではないらしいですね。特に最近のシャネルスーツは私にはどうしても似合わないみたい。私の中に、マドモアゼル・シャネルが来ている写真がこびりついているのが原因なのでしょうか。やはり彼女が一番素敵にみえるような気がします。まあ、それでも一番ちゃんと見えるのは、フツーのシャネルスーツなんですけど……。でも、100万もだしてプレタか……ハーッ!!!!

シャネルの化粧品

シャネルの化粧品の中で唯一私が持っているのが口紅、シャネル アクアルミエール。他の物は持っていませんので……。何故か、化粧品にかける金額は少ない私。あんまり興味ないのかもね。

今、最も興味あるのがアンチエイジング。メーキャップアーティストの方々のテクニックには最大限の賞賛を惜しまないけれど、自分自身が自分のためにどれほど毎日のお手入れができるかについては、ほとんど絶望的な怠け者なのです。その意味でシャネルのタイムファイティングケアのシリーズに興味を持ちつつも……。

バイカラーの靴

マドモアゼル・シャネルは1957年74歳で、バイカラーの靴を発表しました。これが 女性の足を長く美しく見せるためにシャネルが考案した2色のパンプス「バイカラー」の始まりでした。

そして、私がはじめて買ってもらったパンプスがシャネルのパンプスだったのです。

それまでスニーカーしかはいたことのなかった私のデカ足に、パンプスは窮屈で、どれもこれも入りません。この時点でほとんどのデパートと靴屋を回っていた私はそれでもどうしても諦めきれなかったのです(足がデカイのが悪いのか?)。店員のお兄さんが、「もしかしたら……」とシャネルブティックに走って行って借りてきてくれたら、なんとぴったり入ってしまったのでした。私も嬉しかったのですが、そのお店の商品じゃないのに、みんなとっても喜んでくれたのです。しばらくは「私の足にあう靴はこれしかないんだ。」と信じ込んでいました。

今は足のことを考えた靴もあるしサイズも豊富になって、さらにセミ・オーダーも簡単に出来るし、靴型を作れば、足にあった靴がいつでも出来るようになって、私にあう靴も少しは存在するようになりましたけど。

常に時代を先取りする、シャネルの革新性は、女性が快適であるという本来最も尊重されなければならない点に立脚しているのですね。この靴もマドモアゼル・シャネルの女性の体を解放するという考えの延長線上にあった当然の商品なのでしょうね。 女性をより魅力的に演出するためのキーアイテムとして展開されてきたシャネルのシューズ。今でも気品あふれるコレクションは、足元をエレガントに装います。

イミテーション・ジュエリー

あえてイミテーション・ジュエリーを使ったシャネル

宝石が未だ地位や資金力の証明であった時代に、あえてそれを否定し、美しくセンスのいい物が価値があるのであって、デザインによって価値を産むことができることを結果的に(あるいは意図的に)挑戦的に主張した傑作がシャネルのイミテーション・ジュエリーです。

実際のところ、今の私からみても、本物の宝石としての価値以外を持たない宝飾品が多いものです。たて爪のダイヤの指輪なんて、まさしくその典型!!なんであんなものを欲しがるのか分からないし、きっと今後悔している方も、リフォームされた方も多いでしょうね。

別に本物の宝石が嫌いなわけじゃない。しかし、シャネルにしてみれば、高価な宝石を贈られることで、かえって自分が身につけたいものは自分が美しいと思えるもので、決して値段ではないという明確な考えが確立したのかもしれませんね。もしかしたら、本物の宝石をお金を出して買わなければならない人たちは、独自に美を創出できない可哀想な人たちに見えたかもしれません。

昔、シャネルのバッグについていたチェーンとファスナーの金具でチョーカーを作って得意になっていた私としては、きっとシャネルだってそれくらいの事はしただろうと思えるのです。高価なクラッチバッグを分解して、何するんだと思えるかもしれませんが、思いついてやってみたら、結構好評で、みんなにどこで買ったのと尋ねられました。バッグはそのままでも持てますし、メダルの変わりにつけるものはいくらでもありますもの。

シャネルのイミテーションジュエリーだって、素敵に作れば、素敵にみえるし、いくら本物でもダサいものはダサい、というだけのことだったのではないでしょうか。彼女のイミテーションジュエリーは決して安かったわけではありません。しかし彼女のセンスが彼女の価値観が本物ではないものに、本物に匹敵する価値を与えることができるのだということを結果的に証明しました。

現在では、本物の宝石を使用していても、それだけで価値をみとめられなくなっています。どの宝飾メーカーもそのデザイン性と加工技術を競っています。美しいものにさらに美しくするのなら、マドモアゼルも苦情はいわないことでしょう。結果的に、宝石商が彼女の主張を認めたわけですから。

そして、いまではシャネルも、今までのイミテーションジュエリー(模造品という意味ではなく宝石を使用していないという意味のイミテーション)ではなくファインジュエリーの 販売も開始ししました。結果的にここでも、シャネルの価値観にやっと世間が追いついてきたのでしょうね。